2014年4月30日水曜日

『認知行動療法とブリーフセラピーの接点』を読んだ

 津川秀夫・大野裕史(編著)の認知行動療法とブリーフセラピーの接点を読みました。2つの心理療法の共通点と相違点を、色々な視点から、事例を中心に見つめていきます。
 それぞれの著者の文章がとても明快で、スラスラと読み進めることができました。


認知行動療法とブリーフセラピーの接点

姿勢としての「心は細部に宿りたもう」

神村氏・鈴木氏のCBTの肝は細部にあるという指針は、今になってとても腑に落ちます。昔の僕は、もっと漠然とした大きなものに挑んでいる気になっていたように思います。

 「心は細部に宿る」の姿勢は、いわゆるアセスメントの技術に表れます。「心は細部に宿る」の姿勢があれば、クライエントに「普段はどのように過ごされていることが多いか」という、インベントリー項目によくあるような漠然とした尋ね方を面接で繰り返すことはなくなるはずです。・・・
 極論を言えば、一つひとつの反応そのものがどんなものであっても構わないわけで、それらの連鎖の仕方に関心があるわけです。
細かく細かく行動連鎖を確認していくことで、固定化されたパターンや、選択されなかった可能性などを、目の前に並べていくことができます。


ことば への示唆


 セラピストとしての私が、ことばをどう使うかという選択に、ブリーフセラピーは沢山の示唆を与えてくれるかもしれないなと思いました。岡嶋氏が「クライエントに合わせた独自のメタファーもブリーフセラピストは自然に使いこなしますが、CBT領域のセラピストはメタファーを本に書いてあるとおりにやって良いと思っているようです」と揶揄するように、私の臨床もこんな愚かな側面があるのだと思うのです。

 津川氏の三項随伴性を使わない理由も良くわかるものでした。

 ユーモアといたずら心をもって、凝っていたらほぐし、とどこおっていたら流し、力がぶつかっていたならいなす、というのがパターン介入のイメージです。 
 おそらくいま述べた介入例についても、三項随伴性で説明できるのかもしれません。しかし、その逆になるとどうでしょうか。私は、強化や随伴性という枠組みがあらかじめ用意されていると、上記のような発想が自由に浮かんでこなくなるような気がします。理論やモデルはそれを用いる者の施行を拘束します。
 こうやって考えると、理論化に慎重であるエリクソニアン・アプローチの強みが見えてきます。私たちの見立ての仕方は、観察を通してパターンを捉えるというシンプルで素朴なものです。しかし、その素朴さのおかげで、理論による拘束から自由でいられるのです。

 この辺りは、個人的には、羨望と少しの反論があります。機能分析を「する」という行動が、クライエントの変化によって制御されているのなら、理論と自由な発想も共存できるのではないかと想像します。持ち込みたい構造(フレーム)と、そこで使われる言葉(メタファ)の組合せを、知識として蓄えておくこと。そして、面接室内での発言がクライエントの変化によって制御されていること。2つの条件を満たしておけば、知識を得て、増やしていくことは害(邪魔?)にはならないと思うんです。


高橋氏のACT



 CBTのケースで「おや!」と良い驚きがあったのは、高橋氏のケースでした。このケースは治療初期の価値の明確化が上手くいかず、「新しいことを試してみる」という介入をクッションとして噛ませ、日常生活で正の強化子に触れる機会をつくっておいて、価値の探索を再度行うというものでした。価値の明確化は治療初期に行うイメージがありますが、一度、活動性をあげたり、正の強化子に制御される相互作用が出てきたりした後に行うとよりスムーズなのかもしれません。

追記
西川氏の紹介する「時薬」というのも良い名前だと思いました。終結にむけ面接頻度をあけて行く時には、よく助けてもらいます。