2013年5月6日月曜日

刺激-反応連鎖を捉えるということ

臨床を実践する上での私の一つ目標は、クライエントの生活を刺激反応連鎖としてとらえていくことです。
「クライエントの行動を捉える」とシンプルにいうことができますし、環境と個体の相互作用、刺激―反応連鎖を記述するという風にも言えるでしょう。言葉にすると簡単ですが、実施にそれを記述していくことは容易ではありません。
山上敏子先生の生活の「方法としての行動療法」では以下のように記述されています。

ひとつの行動はほかの行動へ影響をあたえているし、また、その人の行動は家族などの周りにいる人へ影響をあたえている。そして、その変化は関連し合っている。このような見方は問題をみるときに、これが原因であり、これが結果であるというような垂直な見方のかわりに、関連の仕合いというような水平な循環的な動的な見方をするということでもある。 p124
わたくしは、いつもそうしているし、それは当然のことであると思うのだが、患者の苦痛や症状などを聞くときに、なにはともあれ、わたくし自身がよく理解できるように聞いている。わたくしにイメージが浮かび、イメージの中で患者の、患者のまわりの人もそうであるが、症状や苦痛や生活のさまが実際に浮かんできて、わかるように聞いている。これは、立体的な刺激‐反応の連鎖分析を幾重にも行っていることになるのであるが、このような聞き方は問題の把握をとても具体的にするし、したがって、治療の方法も具体的なところでうかびあがりやすい。 p163



つまりは、認知行動療法を「する」とはこういうことなのだろうと初めて読んだ時に思いました。それは、行動だ認知だ、エクスポージャーだ、脱フュージョンだと専門用語を使うことではないし、自分は認知行動療法家だと言って回ることでもありません。行動を記述し、予測し制御することです。その基礎の一つである記述は、環境と個体がどのような相互作用をしていて、どのような随伴性が想定されるのか、実際に要因を操作することにつながる記述である必要があるのです。
そういった意味で、子どもの発達の行動分析に登場する記述はとても丁寧ですし、(操作という視点ではありませんが)、連鎖を捉えるということを具体的に見せてくれます。

たとえば、雲の間から太陽が顔を出した。すなわち、環境刺激の変化である。まぶしい日差しによって男性は目を細め、これはぎらぎらする光を減少させる反応である。目を細める行動はけっこう骨が折れ、しかも運転者の視野を狭める。これらの反応は目を半眼にしておく際の緊張と視野の縮小という刺激状況の変化を生じさせ、この男性にさらに次の行動、すなわち車内の小物入れに手を伸ばしてサングラスを取り出し、それをかけるという反応を起こさせる。 この例は、人は環境と絶え間なくしかも果てしなく相互に影響し合っている、ということを明らかにしている。言いかえると、行動は環境に影響を及ぼし、環境は行動に影響を及ぼす。p2-3
人の行動は刺激の作用によって絶え間なく変化しているという意味で、刺激と行動の相互作用はつねに相互依存的で交互的である。人は環境に刺激されるのを、ただそこに立って受動的に待っているわけではない。受動的に待つというような行動と環境の関係は、環境の機能的属性と行動の機能的属性の概念に反する。・・・人類は自分自身や子孫のために、成長し、発達し、そして生き残りを強めるように容赦なく環境を変える。つまり、環境を構成する刺激条件が人の行動に変化を生み出し、これらの行動の変化がその環境を変え、変えられた環境は(他のより永続する影響、たとえば1年の四季などとともに)さらに行動を生み、またそれが再び環境を変える。p15-16



こんな風に、自発的に行動し、環境に影響をあたえ、環境からの影響も受け、ダイナミックに生きているクライエント。そのアセスメントの精度を高めていきたい。山上先生は以下の様にも書いています。
患者さんの訴えを奥行きがある、時間経過がある、動いている、涙も怒りも笑いもある、色も匂いもある、動く立体的なイメージとして、瞬間にとらえていることにときどき気がつくことがある。表現を変えると、幾重にも重なり合い、とどまっていない、刺激‐反応連鎖がみえ、感じられるということであるし、それはまた、瞬時に行動としてとらえているということになるのだろう。そこに治療の入り口や方向や方法が、刺激‐反応連鎖のなかから際立って浮かんでくることもある。これは、わたくしの技術の進歩をあらわしているものであろうが、わたくしが長年そうしているのであるから、そうならない方が不思議なことであるのかもしれない。 p220
これは、地道に行動的なアセスメント、支援を繰り返すことによって、アセスメント‐治療‐評価過程がセラピストの中で自動化されることの例である。
もちろんこれが正解、その時の直感に沿っていけば良い、という訳ではありません、論理を積み重ねる習慣の末に直感が研ぎ澄まされるということなのでしょう。山上先生のようになりたい!ではなくて、目の前の刺激反応をひたすらに追っていくことを愚直に繰り返すことが臨床という作業なのでしょう。