第2回peace自主シンポジウム 「腑に落ちる理解」に関する臨床心理学的研究 from Jun Shigematsu
この中に出てくる「腑に落ちる理解」ってのは、知識を得るだけじゃなくって、『同化』と『調節』によってスキーマが拡張されたり、行動が変わったり、生理指標の変化があったりすることらしい。
そして、腑に落ちる理解を促進するには、想像的絶望とか、「行き詰まり感」みたいなものが提唱されているらしい。なんだか、最悪のストーリーや、アトゥール・ガワンデの死すべき定めの「厳しい会話」にも似ている。
CBTは今こういう帰路にたっているんじゃないかな?苦痛を苦痛として感じる・・・そんな生易しいものじゃなくって、苦しみの沼を通り抜けるような、壊死しそうな体の部分を切り捨てるような、無防備なまま炎に飛び込むような、より激しさを伴うプロセスを必要としてるんじゃなかろうか。
一方で、苦痛にむかってクライエントと一緒に損傷しながら突っ込み技術をセラピストが体得していくのは中々に難しい。トートロジーになるけれど、なぜらなら技術の体得には苦痛にまみれた時間を一緒に過ごしてくれるクライエントがセラピストには必要だから。
最後に、思い出した死すべき定めのプロローグを引用しておく。
この中に出てくる「腑に落ちる理解」ってのは、知識を得るだけじゃなくって、『同化』と『調節』によってスキーマが拡張されたり、行動が変わったり、生理指標の変化があったりすることらしい。
そして、腑に落ちる理解を促進するには、想像的絶望とか、「行き詰まり感」みたいなものが提唱されているらしい。なんだか、最悪のストーリーや、アトゥール・ガワンデの死すべき定めの「厳しい会話」にも似ている。
CBTは今こういう帰路にたっているんじゃないかな?苦痛を苦痛として感じる・・・そんな生易しいものじゃなくって、苦しみの沼を通り抜けるような、壊死しそうな体の部分を切り捨てるような、無防備なまま炎に飛び込むような、より激しさを伴うプロセスを必要としてるんじゃなかろうか。
一方で、苦痛にむかってクライエントと一緒に損傷しながら突っ込み技術をセラピストが体得していくのは中々に難しい。トートロジーになるけれど、なぜらなら技術の体得には苦痛にまみれた時間を一緒に過ごしてくれるクライエントがセラピストには必要だから。
最後に、思い出した死すべき定めのプロローグを引用しておく。
死すべき定めは、危険な題材にもなる。避けられない衰弱と死について医師が書くということだけでも嫌がる人がいるだろう。この話題は、どれだけ書き方に気をつけたとしても、社会が病者と老人を犠牲にしようとした時代の亡霊を多くの人の脳裏に浮かび上がらせるだろう。しかし、もし病者と老人が今すでに犠牲者になっているとしたら?生死のサイクルのもつ非情さを私たちが受け入れず、拒むことで犠牲になっているとしたら、そしてもし、他にもっとよいアプローチがあり、それは私たちの目の前にあって、見つけてもらうのを待っているとしたら?