歌舞伎役者の中村勘三郎のラジオでの話を聞いて思ったこと。
「伊集院光とらじおと」月曜日のゲストは、中村勘九郎さん!|TBSラジオ
「」:引用符
古典芸能とスキマ
伊集院光 「いいエンターテイメントって客として見たときにこれを読み取った自分の手柄っていう(感覚が気持ちいい)。でも本当は演じての方にも、台本の方にも入ってるんですよ。でも、共同作業で見る側がつかむ。その掴むことが楽しい気持ちいい。」と語り合われていた。
それは、作品や意味、内容を提供するのではなく、体験を提供しようとする試みだと思う。意味をわからせるのではなく、内容を知る過程で、どんなプロセスを介するかという側面で作り込む。そして、それを明示しないで。
映画「シックスセンス」でもそうだった。シャマランは、ストーリーではなく、体験をプレゼントしようとしてくれたんだ。怖い話もそういうものだし、笑い話もそういうものだろう。内容自体よりも、どんな形で辿り、そのように手足を動かすことで生み出せるのは何かということ。
そして、完全に予定通りに動く仕組みなんて存在しない。シャマランでさえ、作り出さないとどんな仕掛けができるか何て分かんないし、公開してみないとホントのトコで客がどう反応するかなんて分かんない。仕掛けの正確な結果何て自分も分かんないからこそ、安心して仕掛けられる。客にほんのりとした期待と信頼を寄せながら。
こういう客が自分で探る余白というのは、プロセスを提供する上では、とても大事なんだろう。スペースを埋めすぎると、客が動く空間がなくなる。
カウンセリングでも、セラピストの曖昧さを残した発言や、メタファー、ソクラテス式質問、視点を切り替えた発言(ミラクルクエスチョンやブリーフセラピーの種々の技法)などには、そういう余白がある。
隙間を作るってことなのかな?それとも隙間に気づくってことなのかな?それとも隙間の存在を感じて頭の隅に置いてくってことかな?きっと、それが相手の自発を引き出す仕掛けになるんだろう。
伝統芸能とトラッキング
もう一つ中村勘三郎が「歌舞伎はまず教えられた通りに、出来ないけれど100%(同じということ)を目指してやる。それを何回か行った後で、変化を加えることもある」と話していた。歌舞伎はトラッキングなのかもしれない。いや、トラッキングとして機能していく場合がある。型通りに演じて、そこでの体験に制御されて、その人の味が出てくる。
古典を大事にするということと、自分の味を出すということ。歌舞伎などは、もしかしたら、その古典とその人との混ざり合いというものを、ズレのある繰り返しとして楽しむものなのかもしれない。
筋が知りたいだけなら、本を読んだ方が早い。
心理療法を学んでいくことにも、似た所がある。文献に学び、実際の行い、直接随伴性にセラピストも触れ、自分を変えていく。
良い目が出てくれると良いなと願いながら、私たちはサイコロを振っていく。
p.s. スキマスイッチっていい名前だな。