2016年5月4日水曜日

私のために書かれた歌

つらつらと

英語論文を読む。日々のケースにあたる時に、できるだけ書籍ではなくて、論文を参考にしたい。

書籍や人の語りと論文とでは、「先行研究を踏まえる」という点で異なる。もちろん、多数の論文で引用される書籍もある。論文と書籍とで書く人間が異なるわけでもない。だけれど、論文は脈々と科学的な知見を蓄積する場であり続けている。「巨人で居つづけてくれる場所」だ。

「認知行動療法は・・・」とか、「エビデンスベースドうんたらは・・・」とか、「科学的手続きに基づいて・・・」とか、もともとは「自分がやることがどんなものか」へのこだわりから始まった。

そのこだわりもグラデーションを変えてきた。

「英語論文を読む習慣を持たない」という臨床心理士が日本では多数派だろう。それは、その習慣が間違っているという訳ではない。

きっと臨床技能というものは、論文を読まなくても磨かれ、向上していくことは可能だ。特に、クライエントから良く学ばせてもらえている場合には、そうだろう。

私のために書かれた歌

思春期から青年期にかけて、音楽や小説は人を救ってくれる。私も、そうやって救われた1人だ。

「私のために書かれたとしか思えない歌」に出会うことがる。もちろん、そんな訳はないとは頭ではわかる。

それでも、誰にも分ってもらうことはできないだろうと諦めていた思いを、歌ってくれた人がいると分かった時に、確かに救いを感じた。

誰のためでもない、自分のために書いてくれたとしか思えない、その実感は暗闇のような日々を照らしてくれる。

親鸞は何千年にも渡って脈々と紡がれた仏教を、「煩悩を捨てられない正に自分一人を救うために阿弥陀如来が作ったとしか思えない」と思ったそうだ。

インターフェイスとしての私

私が、英語論文を読む。その知見を目の前のあなたの支援に生かす。それは、洋の西洋も異なる地で、何百年もかけて紡がれた論文を、目の前の人が「まさに自分のために書かれた歌」にできる瞬間なのではないかと思うのだ。

これは、正しさでもなんでもない。

でも、素敵なことだと思う。

そうやって何百年もかけて知を積み上げてきた研究者たちと、今の世の中を生きる一人の人。そのインターフェイスになることができるというのは、光栄なことだ。

それは、「自分がやることがどんなものか」へのこだわり、というよりも、「渡し舟」としての役割意識に近いように思う。

転がっていたら、たんなるアルファベットの羅列に過ぎないかもしれないけれど、臨床家がクライエントのために読むのであれば、「私のために書かれた歌」になる。

脈々と流れる営みと「私」との出会い。そこには、救いが、言い換えれば肯定があるのだ。


そうして、今日も読む。