2017年7月24日月曜日

自分自身へのエクスポージャー

気のすすまない案件で、ビクつきながら交差点を渡る。「行きたくねぇなあ」という頭の中の呟きと一緒に「エクスポージャーだと考えよう」といつもの自分に向けたスローガンを付け足す。

ハッと気づく。

「どこかで今の不安から逃れるために、エクスポージャーを使おうとしていた…」

「そうじゃないよな」

エクスポージャーには色々な背景理論があるけれど、その時の「不安から逃れる」ために用いられることなんて、現代はない。
(それは、認知療法やリラクセーションに求められることだろう)

やるべきこと、できることは、次の同じ場面のために、今何をするかだ。今の不安を取り除くために、エクスポージャーはあるんじゃない。

こんな基本的なことも、自分自身の問題になると、分かっていなかった。その場の居心地の悪さや不快感、無力感から、逃れたい、逃れたい、と求めていた。

では何ができる?

今の環境の中でのCSとUSを観察すること、予測と現実を出会わせること。恐れの先を知ること。

我々に与えられている余地というのは、2つなんだと思う。1つは、その時にやるべきことを選ぶことができるという余地、そして、もう一つは、次にいる自分を変化させるために、今の自分が取りくめる余地の2つだ。


変わっていける、変化し続けていくことができるというのは、何もせず解放されるような世界が無いという絶望と共に、救いでもある。